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☆♪☆ 武家屋敷 ☆♪☆

今日の仙北市角館町の原型ができたのは、徳川幕府の基礎が固まりかけた二代将軍
秀志の時代であったと言えます。その頃、江戸の城下町は歴史がまだ浅く、時の経過と
ともに少しずつ膨張して行ったようだが、角館町の町並みも数年で完成したとは
考えられない。角館城主芦名義勝は元利6年(1920)新しく「縄張り」をして城下町を
建設し、近年「みちのくの小京都」と言われ「城下町の町並みや武家屋敷」が残っている
珍しい町として角館が全国的に紹介されるようになった。角館の武家屋敷の成立ちは、
常陸国(茨城県)の大名「佐竹義宣」は関ケ原の役に徳川家康に非協力であったとして、
慶長7年(1602)7月、突如として左遷の命令をうけた。「佐竹義宣」は、この秋田
左遷を京都でうけ家臣の動揺を考え、そのまま国元にもどらず、直接秋田へ向かったと
されている。知行石高もわからず、地理不案内で、その不安は大きかったと思われる。
石高は60年後の寛文4年(1664)に幕府からやっと明示された。「佐竹義宣」の
常陸時代は54万6千石と言われたから半分以下に減封されたことになる。この厳しい
決定は関ケ原の役後に、93家(506万7千石余)が断絶し、減封された家が、
わずか同家であったことを思えば、断絶にならないだけでもありがたいと言わざるを
得なかったようです。「佐竹義宣」の秋田下向に従った1族家臣たちは93騎で、
この中には角館に関係する人々が数名含まれており、秋田からも数名常陸に国替に
された。こうして慶長7年(1624)に秋田と常陸の交換が行われた。「佐竹義宣」は
同年9月に秋田湊誠に到着し、1族を諸所に配置した。角館城では7月、
須田美濃守盛秀が城を受け取り、翌年8月、芦名義勝と交代する。なお白岩には、
多賀谷宣家が派遣されたが、のちに湯沢、そして桧山城へと変った。新しい支配者に
対し、土豪たちの反抗が県北では米内沢や大館、県南では六郷や田沢湖町神代
(卒田)で起ったが、これらは力で抑えられた。「芦名家」は会津の黒川城(のち若松城)
に居住した大名で、占い歴史を誇った家であすが、芦名の家名は、相模国(神奈川県)
「三浦郡芦名郷」に由来している。相模の「佐原義連」は源頼朝の奥州平泉征討に
功をたて、文治5年(1189)に会津の地をもらった。「芦名氏」が実際に会津に
下ったのは南北朝の混乱も終る康暦元年(1379)の頃と言われ、「芦名直盛」が
黒川城に居住し、町づくりを始めた。直感から数えて9代のちの、盛氏(大永元年
(1521)~天正8年(1580)の代に「芦名家」は繁栄し、東北における会津の
芦名として、米沢の伊達家や常陸の佐竹家と覇を競うほどに成長した。しかし、子の
「盛興」は天正3年(1575)若死にし、養子の「盛隆」は天正12年(1584)
家巨に殺され、その子の「亀王丸」も大正14年(1586)若死にするという悲運が
続き、「佐竹家」から養子を入れて、やっと家名を存続した。この人が「芦名義広」
のち義勝、天正3年(1575)~寛永8年(1631)であるとされる。「義広」は
「佐竹義重」の次男で、嫡男でない所から早く他家にやられた。大正7年(1579)
奥州白川城主義親の養子になり、「義広」と改名したが、「芦名家」の男子系統が絶えた
ことから、天性15年(1587)、「白川家」から「戸名家」の養子に移され、盛興の娘
(円通院・小杉山御台)を妻とした。会津・芦名家の滅亡はそれから2年後の天王17年
(1589)6月に起こった。スリアゲヶ原の戦で、会津は伊達政宗に攻められ、家臣たちの
内部対立とその裏切りがあって黒川城は落ち、「芦名義広」と一部家臣は常陸の竜ケ崎
まで逃げのびた。会津の大豪族で中世より続いた由緒ある名家もその滅亡は内紛・
裏切りから、という情けない姿であったらしい。このことは「芦名氏」に領国経営の
甘さがあり、家臣統制の不徹低さがあったからで、「芦名義広」は弱い基盤の上に
のっかった悲劇的領主であったとも言える。ただ「義広」を擁護した会津譜代の家臣に
とっては、「芦名家」が偉大で由諸あるものとし誇りに思い、家名を是非とも再興
させたかった。これから終局のない家名存続の動きが始まることになる。常陸の
「佐竹家」に身を託した「芦名義広」と家臣たちは肩身の狭い中で豊臣秀吉に伊達家の
不法を訴え、小田原討伐にも参加、協力した。芦名家再興が許されたのはこの戦が
起った天王18年(1590)で、常陸国内の江戸崎に4万8千石の知行が与えられ、
家臣も100名以上にふくれあがった。その安堵と再出発の決意が、「芦名義広」をして
「盛重」と改名させた。しかし、江戸崎の芦名家は関ケ原の役後の大名処理で再び
悲運にみまわれる。「佐竹家」とともに江戸崎が没収され、「佐竹義宣」に附いて秋田に
移らざるを得なかった。そして慶長8年(1603)8月、角館城主1万5千石を仰せつかる
居住地は角館城(古城山)の北側、田沢湖町小松本町にあたり、もと「戸沢政盛」のいた
地であった。角館・「芦名家臣」は現地召抱も含めて100名を越えるほどになり石高は
最高200石(家老)、平均60石という知行高であった。また家巨の中では会津譜代が
約半数を占めていた。「芦名盛重」は角館に来て「義勝」と改名し、ここに心機一転、
新しい生活に入ったようだ。年は28歳になり、かつての「白川家」や芦名家の養子に
入った頃の幼稚さもなくなり、苦労を重ねた中でものを見る目も養われていた。

その後、城下町の建設が始まったが幕府は大名統治策から元和元年(1615)一国一城
合をうち出したが、「佐竹藩」がこれを実施したのはそれから5年後の元和6年(1620)
のようです。3月~4月にかけて、湯沢城・角館城・桧山城・十二所城が破壊されたが、
「芦名義勝」はこれを契機に、旧田沢湖町小松本町にあった旧城下町を古城山の南に
引越しさせること、つまり新しい城下町の建設を決意したようです。実をは、「芦名」と
その家臣たちは旧角館町に17年間も住んだが、人々の心中に嫡子盛安の病死が
大きな空洞をつくったようで、もしかしたら「芦名家」はこのまま滅亡してしまうのでないか。
出来るならば、佐竹の配下でなく、「芦名家」を早く独立させたい。そんな不安と願望が、
昔の黒川城時代を回顧させ、現扶不満へのうっせきした気持らをこもらせていた。
そうした時に、元和5年(1619)6月に、院内川の氾濫があって十数名の溺死者を出し
翌年の大火、そして角館城破壊令と続き、動揺がいっそう広まったのです。そこで家臣達
の気持らを1つにまとめ、心機一転させることが必要となった。角館城破壊は町を引越し
させる最大の転機となったようです。元和6年(1620)に始めた町づくりの場所は
古城山の南、勝楽村が選ばれた。城郭がこわされたので正式な城下町とは言えないかも
知れないが、町の特色は近世城下町としての規模と特色をもっていた。ただ久保田
城下町のような大がかりなものではなかったようです。新角館町の縄張りを行った
人として、修験者の「妙何」があげられています。生田村に「妙阿」とて、英才知識の
修験あり、角館内町・外町、縄張り折禱を「妙阿」に頼み、時の人皆帰依をして、角館の
聖人と仰ぐそのまま院号を、角聖院と名をつけて、町一統の折禱場となし、と武藤為翁の
背噺を聞きて知る。「烏帽子於也」の筆者は角館北家の組下須藤半五郎(1775~
1851)で、著作年代は文政7年(1824)以降と言われている。「妙阿」については、
他に証明するものがないので、実際に縄張りをやった人物かどうか、はっきりしないようだ
佐竹藩内で修験者の棟梁は今宮摂津守であったので、今宮氏配下の修験が関係した
とも考えられている。

角館城下町の構造は、①地形として、西は桧木内川に接し、東は
外の山・花場山・田町山、少し離れて犬威徳山がそびえ、南は玉川が流れるという自然の
要塞に囲れた場所を選んだ。②町内(武家屋敷)と外町(町家)の境は「火除け」と称する
幅21m、長さ約288mの空き地を設け、その中央に、東西に高さ3mの土塁を築き、
両わきには、下水路を流し、外町側に門を設けた。これは単なる火災予防だけでなく、
両者をかく然と区別した軍事的防衛的意図も持ったものであった。③内町と外町の
土地の広さは異なり、その比率は内町64、外町36で、内町は外町の約1.7倍になり、
武士は広い敷地をもった。④内町と外町は戸数が外町が内町の2.61倍と多く、町人は
狭い敷地に、より多くの人数が移住させられたようです。要するに、内町では武士の
家屋敷が大きく、そのため屋敷内に樹木を植え、庭を造るというゆったりした構えになり、
外町では道路に面した表問口が狭く、当然に奥行きか深くし、細長い敷地を作って、
樹木を植える余地は少なかったようです。⑤一般に道路網は碁盤の目のようであるが、
しかし内町では見通しがきかないように、くい違いの道路を作った。火除けから北家の
屋敷は真直ぐに見えないように道路を走らせている。⑥道幅は今般に狭く、5.8m
平均であるが、中心道路としての内町の表町から東勝使丁の通りにかけては
10.9m幅に広げて、その両側に上級武士が居住した。裏町はそれより下の武士が
住み、東西の両はじ(御徒町・御仲間町と御蔇町)には徒土や足軽・小者などを
居住させた。⑦寺院は城下町、特に外町の周辺に配置し、いざという時の町の防衛を
考えた。⑧外町の町名は、久保田城下(秋田市)のような茶町・米町・肴形・鍛冶町・
馬口労町など商工業に関したものがないが、これは人口が少なく、まだその発達が
乏しかったからであろう。内町では御徒町・御仲間町・御厩灯の如く、武家町としての
面影をよく長わしている。⑨角館の武士は「芦名氏」とその家臣だけではなく、他に
今宮摂津守とその組下がいた。今宮氏は佐竹氏の一族で、修験社人の棟梁権をもち、
約120名をこえる組下を待った。「芦名家」と今良家は対等な関係で、町割りでは
火除けより北の内町に芦名家中、離れて菅沢(田町)に今宮組下を居住ささせた。
実は、佐伯宗家は湯沢市の南家や、大館の小場家(西家)を配置するにあたって、
本藩から派遣された組下を別に居住させて相互監視させる方法を取っていた。
角館で言えば、これが「芦名」家中と今宮組下になるわけで、今宮摂津守白身は内町の
東勝楽丁の中心に住むが、組下は菅沢におき、その足軽は竹原町に居住させた。
ただし「芦名」家中もその内訳をみれば、会津以来の譜代と江戸崎譜代、角館に来てから
召し抱えた侍、さらに佐竹宗家からの付人と大きく4つに分れて、その主流が
会津譜代であり、一つにまとまっていたとは思えないのです。
以上が、角館と武家屋敷の成り立ちです。


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