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C クニマスの繁殖は可能なのか?

明治40年、湖畔の潟尻にある県営ふ化場は手刀めて11万余粒のクニマスのふ化に
成功するが、養殖となると見通しがつかない。採卵数も10万単位では問題にならず、
少なくとも100万単位でなければ事業としての見通しはつかない。このため毎年親魚集に
苦労することになる。一方、ふ化には成功するものの、水そうの底でふ化した稚魚は
浮上すると間もなく死んでしまう。え付きが悪く成長段階寸前で死ぬため
放流までにいかない。試行錯誤を繰り返しながら、結局、浮上した稚魚をそのまま
育てずに放流すると、どうやら湖底で成長することがわかった。ここまでの研究に10年
余りかかっている。大正7年、ようやく自信をつけた県は、ふ化場を西木村の潟尻から
田沢湖町の春山に移い本格的なふ化事業を始めた。以後、大正から昭和にかけて
年間、百万粒から300万粒のふ化放流が同ふ化場の手で進められた。雌マスには
約800粒の卵が入っており、1,200匹から3,200,300匹分の採卵をしたことになる。
生保内小学校は理科教育の一環として春山の県営ふ化場の見学を毎年行っていた。
大正8年にこの見学をした田沢湖町中生保内、田口さんは「湖畔から買い集めてきた
数千匹の雌マスの腹を3人掛かりで次から次と切り裂き卵を採っていたが、ふ化場内は
まるで戦場のような忙しさだった。採った卵に雄のシラコ(精液)を振り掛けていたが、
あれで本当にふ化するのかと不思議に思ったことを記憶している」と語る。考古学老の
故武藤氏が、湖畔の旅館主から聞いた話として「腹を絞られた雌マスは、その日は
ひっくり返っているが、翌日になるとシャツキリして泳いでいた」とその著書
「秋田郡邑魚渾(たん)」に書いている。大正8年の県水産試験場の調査によると、
放流の効果があったためクニマスの漁獲量は漸次増加い18,784匹4,695円に上った。
1匹25銭につく。昔から湖岸では病人か妊婦以外には「ぜいたく品」として食べず、
すべて換金されていた。「1匹が米1升(1.5キロ)もつくのだからもったいない」と
されていた。この時期、米の値段は変動が激しい。大正7年8月、富山県の漁民の
妻300人が米の県外移出禁止を求めて、デモを始めてから全国に米騒動が持ち上がる。
騒然とした時代ではあったが、生産者米価は大体1俵(60キロ)10円前後だっ仁。
1俵10円とすれば1升(1.5キロ)は25銭になり、クニマス1匹の値段と釣り合う。
もっとも小売り米価は1升38銭から40銭ぐらいだったので、
これよりはいくぶん安いといえる。

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