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A 田沢湖の測量は命懸けの作業だった?

田沢湖が深さ日本一の座に就いたのは明治42年8月です。
それまでは日本一かどうかの順位よりも、深さそのものが分からなかった。
ただ、「深い」とだけしか表現できなかったのです。「深い」ということは
30m前後という透明度を持ち、その透明度でも底が見えないということだった。
明治42年8月、田中阿歌麿博士が錘側し、その結果は397mと出たといいます。
鉄を入れるとたたりがあるという辰子姫の伝説がある田沢では当時丸木舟しかなく
風波が出ると転覆の恐れがあり、これをおかして錘側する者のなかったのは当然と
言えます。田中博士の紀行文「湖沼めぐり」によると、「夜東京を出発、翌日午後
大曲駅(現・大仙市)に着き、この日は角館に一泊、翌日は人力車と徒歩で
夕刻湖畔に到着」と、実に40時間も要した。さて、湖上に出ようにも例の伝説が
クギを用いた和船はない。やむなく丸木舟2艘を横につないで湖上に出るが、
「少し風波が高まると錘側の縄を手操るいとまもなく、浮標を付けて捨て放ち、
船夫に舟を急がせ、私達は舟の中に入る水をかい出しながら命からがら湖岸へ
逃げるいや押し流されるのであった」というわけでまさに命懸けの測量だった
らしいですこして得られた深さ397mは、当時の日本の湖の最深記録である
鹿児島県薩摩半島南端の池田湖の227m(その後233mになる)を170mも超え
日本一の座に就いた。その後、田沢湖の深さは数回にわたって書き換えられました
2位の池田湖も、十和田湖や支笏湖の深さが判明するにつれて、2位・3位・4位と
転落していった。しかし田沢湖だけは常に日本一の座を守り続けました。
ところで、397mという田中博士の記録はわずか1年1ヵ月の寿命だった。
田中博士が測量した翌年の明治43年9月、県水産試験場が、やはり丸木舟2艘を横に
つないで測量に乗り出した。麻縄を用い、重さ7kgの鉛のおもりを付けて
錘側した結果413mを得た。田中博士よりも16m深い!!しかし、この記録も短命に
終わる。大正3年8月、東北大学物理学科の学生が夏季実習で田沢湖を訪れ、
鋼策を用いて錘側して425mを得た。水産試験場の記録を12m上回ったわけだ!!
この記録(425m)は41年に国土地理院の調査で423.4mとなるまで
52年間公式記録として生き続ける。治43年の県水試の413mが大正3年の東北大の
調査で425mとなったことについて湖沼学の権威、吉村信吉博士は「麻縄の場合、
水に長く付けておくと3mぐらい伸びる。鋼策の場合は垂直にさえ下ろすと誤差は
少ない。県水試の413mに3%を加えると425mとなる。今から考えると県水試は
最深点を発見していたことになる」(田沢湖の湖沼学的概観)と述べている。


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