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E 死?の湖となった田沢湖。その原因とは?

日中戦争が始まった昭和12年、電源開発と農地開拓の二つの目的で、
田沢湖に玉川を導入する方針が内務、逓信、農林三省間の協議で決まり、
第70帝国議会を通過、開拓は国営(農林省)、電源開発は東北振興電力株式会社
(日本発送電会社の前身)で進めることになった。田沢湖に発電所のダムと
農業かんがい用のため池の二つの役目を果たさせようという計画だ。
玉川は強酸性の毒水、この毒水が田沢湖に入ると、湖の持つ生態系はメチャメチャに
破壊されることは必至、今なら環境保全の立場から猛烈な反対が出ることは
間違いないが、当時は戦時体制下でもあり、一切の反対は許されなかった。
工事は調査、設計も含めて直ちに実施に移された。しかし国もさすがに、この毒水が
モロに田沢湖へ導入されては農業用水としても、工業用水としても不適であるとし、
昭和14年4月1日、内務、逓信、農林三省の協議事項として「玉川河水統制計画」を
樹立した。それによると、玉川の水質を改良(除毒)するとともに、玉川支流の
先達川(無毒性)を導入し酸性を希釈することにしている。これにより先達川のきれいな
水も田沢湖へ導入されることになった。 日中戦争開始(昭和12年7月7日)とともに
国の経済は統制経済、戦時経済へと移行、統制は日一日と厳しさを増す。
同12年9月には輸出入品等臨時措置法、13年4月には国家総動員法が施行される。
以後、物価委員会令工作機械供給制限規則、石炭配給統制規則、ゴムぐつの
販売制限など昭和13年だけで26の制限令規が出されている。戦いが進むにつれて
各種の統制はさらに強化され、15年には労働調整令、農業水利統制令など
次々に公布された。しかし田沢湖への玉川と先達川の導入とそれに伴う発電所建設や
疎水幹線水路の建設工事は極めて順調にスピーディーに進められた。
まさに国策に沿う工事だったわけで、各種の統制令が乱発されるなかで、ここだけは
物資も豊富だった。当時工事に関係した角館町岩瀬、佐藤製作所社長佐藤さんは
「ゴム長など貴重品化していたが、いくらでも配給になった。物資が不足だった
記憶はない」という。 工事は昭和14年いっぱいで、生保内発電所への取水口を
残して完成、翌15年1月14日、取水口の湖岸爆破に成功、田沢湖の水は
生保内発電所に流れ込んだと同時に玉川導入路の毒水が田沢湖へ流れ込んだ。
2月1日、生保内発電所が営業発電を開始した。玉川導水路は幅5.2でm、
長さ1,865.2m。青々とした毒水が水しぶきを上げて田沢湖へ流れ、
この水量とほぼ同じ水量が田沢湖から生保内発電所に吸い込まれた。

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