|
|
F 田沢湖と玉川の関係

玉川は田沢湖町奥地の大深岳(1,514m)に発し岩手境八幡平の渓流を集め、
玉川五十曲地内で強酸性の渋黒川と合流、わが国でも有数の強酸性河川と
なっている。この酸性の原因は玉川温泉はPH1.1、温度98度、
塩酸含有量3,100PPMという泉質で、わが国の温泉のなかでも特異な存在。
これが渋黒川を経て玉川にり込むため玉川温泉下流の鐙畑付近でさえ
PH3.4−3.5の強酸となっている。酸性度を示すPHは7が中性で6・5・4・3・2・1
となるに従い10倍ずつ酸性が濃くなることを示す。反対に8、9、10となるに
従いアルカリ性になる。農業用水としてはPH5〜9までの範囲が許容限度とされ、
5以下、9以上は問題が出る。PH1の水を6に高める(酸性を弱める)には10万倍
薄めなければならない。玉川除毒の歴史は古い。佐竹藩が天保12年(1841年)
角館地方の玉川毒水による農業被害を除去するため、田口幸右衛門に命じたのが
始まりという。幸右衛門の除毒法は「毒素は気体であり水の流入で毒水となる。
噴出池への水の流入を防げば毒素は空噴する」と考え、流入する水を堰を造って
他へ導いたり、それでも入り込む水は、沈殿池をつくるなどの工事を行った。
この除毒は田口父子三代にわたり、それなりの効果を上げた。明治3年からは
放任状態だったが、明治40年玉川毒水排除期成同盟会が設立され、同44年と
大正15年に調査が行われたがこれといったキメ手は出ていない。昭和3年6月、
農林省の杉浦技師が、同7月東大農学部の麻生慶次郎博士が、それぞれ調査、
特に麻生博士は、いったん土中に浸透させた毒水は酸度が減少することを実験で
確かめた。同年9月、杉浦技師を団長とする10人の調査団が農林省から派遣され、
麻生博士の実験に基づいて現地で約40日間の調査や実験をした結果、
ようやく結論を得た。それによると @旧藩時代に田口父子らによってつくられた
田口堰、善助堰などを復旧し空噴地への水の流水を少なくする。
Aそれでも水が流入し毒水となって流れるのでこの毒水を渋黒川両岸8〜12kmに
わたり土水路を造り浸透させる。さらに浸透しない毒水は、土水路の末端に
四力所のため池をつくり、いわゆる「土水路、ため池式浸透法」で除毒する
B大噴口の岩石を取り除くとともに、その下流の川底を堀り下げ水位を低くい
空噴を容易にする−の三段構えのものだった。昭和5年、県はこの計画を採用、
総工費35万円の予算が県会で可決、昭和6年県営工事として着工された。
昭和8年、まず左岸土水路が完成した。しかい毒水を通したところ早ければ5時間
遅くとも2日ぐらいで水路は陥没崩壊しその後修理を繰返したが結果は同じだった
この現象は毒水に限られ、真水を通すと数力月間異常がなかった。土水路の
代わりに木樋(ひ)の水路に改造したが、今度はその継ぎ目から毒水が
漏水しこれも失敗に終わった。

← 前のページ E 死?の湖になった田沢湖。その原因とは?
次のページ ⇒ G 死の湖、田沢湖は復活できたのか?
|
|